ロード・オブ・ザ・ネイティブアメリカン ( First contact Story. )            <<戻る>>

    ☆☆ アメリカ・インディアン居留地より ☆☆

 

著者 -PUEBLO- <代表> 松本 宏之

 

いつの頃からか、アメリカの先住民族、ネイティブアメリカン(アメリカ・インディアン)に興味を持ち始め、いろいろな文献、資料などを読み漁るうちに、その思いは「ぜひ、会って話がしてみたい。」、又「どんなところで生活し、何を食べているのだろう?」などと、現地に赴き、出会ってみたい気持ちを抑えられなくなり、「ネイティブアメリカン居留地の空気を肌で感じに行こう。」という具体的な行動へ移ってから1週間後には、アメリカ行きのチケットを片手に成田空港を目指していました。この度は、その時の珍道中、また感動した景観、ネイティブアメリカンと出会って感じた事などを記載させていただこうと思います。ちょっとでもネイティブアメリカン、又アメリカの南西部に興味のある方、そしてこれからアメリカ方面へ旅行などを考えておられる方がおられましたら、ぜひご一読ください。ネイティブアメリカンの暮らしぶりや居留地の様子、現地での体験談を載せておりますので、旅の参考になると思いますよ。

             

 思い立ったら即行動が心情の私ですので、ネイティブアメリカンに出会うという目標を胸に抱いたときに、達成するための行動は始まっていました。まずは、現地までのルート選択とチケットの手配です。アメリカ全土の地図、航空会社から取り寄せた飛行機のフライトプラン表を見合わせて、現地までの飛行機移動ルートの作成です。ちょこっと、ここでいつもの遊び心が湧き上がり、「どうせアメリカへ行くのだったら、大好きな音楽、中でもブルースの本場シカゴへ寄り道をして、ブルースを聴いてから、ネイティブアメリカン居留地へ向おう。」と初の海外旅行とは思えないルートを作成する事となりました。いろいろなルートを検討した結果、東京の成田空港→シカゴのオヘヤ空港→ニューメキシコ州のアルバカーキ空港(到着後、サンタフェへ車移動)で到着です。また帰路は日本への直行便が無いため、アルバカーキ空港→ダラス国際空港→東京の成田空港とするのが飛行機チケット料金、移動時間供にベストに思いましたので決定です。早速チケットを購入しようと思い、近所の旅行代理店を廻ったのですが、どこも高い。パック旅行、団体旅行等では価格を抑えたチケットが有ったのですが、個人旅行でアメリカはニューメキシコ州のアルバカーキ空港へ行くともなると、行く人も少ないせいか、正規のチケット料金で、目の飛び出るようなチケット代がはじき出されました。また、ある旅行代理店では「アルバカーキ空港ってどこでしたっけ。」などと逆に問い掛けられる始末で、地元の旅行代理店での飛行機チケット購入はあきらめました。その後、旅行の本、雑誌、電話での問い合わせ等で、安心できて格安で手に入るショップを探索した所、大阪に良いショップが見つかり、電話注文で購入する事が出来ました。ちなみに地元旅行代理店の3分の1の値段で、フライトプランについても精通していました。次に現地での滞在先の確保です。安くて安全なホテルを探す事にしましたが、なかなか現地のホテル事情がわかりません。そこで、最新の機器、インターネットを利用して探索、あわやくば予約を行う事にしました。まずは、ブルースを聴きに立ち寄るシカゴで検索、「ホテル予約、シカゴ」などと言うキーワードで検索を行うと結構ヒットします。しかし、英語で書かれているホームページの中から、安全で割安のホテルをゲットするには至難の技に思いましたが、ここは勇気を出して選択、注文。無謀にも注文を入れてしまいました。「なんとかなるさー。」という事で、続けてネイティブアメリカンの居留地であるサンタフェでも注文確定。まったくといっていいほど英語力の無い私ですが、大きな不安を残しながらも滞在先確保です。準備の最後として現地ドルへの換金と、トラベラーズチェックの購入を近所の銀行で行い、旅立ちの日までの数日間は英語の本とのニラメッコが続いたのでした。

 

       

 いよいよ出発です。「ネイティブアメリカンに出会う」という大きな目標と、初の海外旅行なのに、すべて格安を狙った宿泊先ホテル手配等による、大きな不安を胸に抱きながら。まずは日本脱出の窓口、東京の成田空港まで行かねばなりません。ここは国内格安セットプランで、私の暮らしております鳥取県は米子から大阪の伊丹空港までは高速バスで、伊丹空港から東京の羽田空港まで飛行機で、そして成田空港まではリムジンバスで、と丸1日を費やす事になりました。成田空港に到着し、飛行機搭乗前の荷物チェック、持ち物チェック等の準備を済ませる頃には、もうへとへとと言う感じで、これから海外に旅立つ事となるのに一抹の不安がよぎりました。待つ事2時間の後、無事にアメリカンエアーへ搭乗できた時には、心の中で万歳三唱です。これから16時間後、そこはもうアメリカなのです。「どんな事が待っているのだろう。」などとワクワクしながらコーヒーを飲んでいると、「do you like coffee?」などといきなり英語で添乗員さんから話しかけられました。なんと、添乗員さんも乗客もみんな外国の方々。そうです、ここはすでに異国のアメリカなのです。アメリカンエアーという事で日本人乗務員は居らず、旅行時期外れの深夜出発便に、日本人旅行客は用なしなのです。他力本願を座右の姪に持つ私は、行きの飛行機で、イミグレーションカードの記載方法、入国の注意、現地情報などを飛行機の搭乗員から聴こうと計画していたのですが、当てが外れてしまいました。がっくりです。それから到着するまでというもの、飲み物の注文、食事の選択、イミグレーションカードの記載方法などなどまったく理解する事が出来ず、初めて出会った本場の英会話には痛い目を見ることとなりました。そうこうしている間に、16時間という長いと思っていたフライト時間もあっという間に過ぎ、シカゴのオヘヤ空港へ到着したのでした。到着後、当然誘導のアナウンスなど理解する事が出来ず、人の流れに沿って空港内へ入り、壁沿いの標識を便りに荷物を受け取り、入国審査を受ける事になりました。ここの所のテロ事件の影響もあり、特に外国人は審査が厳しく、私などは、靴、ベルト、上着など全て脱いでチェックされることなり、30分位時間を費やす事となりました。しかし、無事検査も入国審査も通過してロビーを出た時は、安堵と供に、「そんなに私の事が怪しかったのかな〜。」などと自問自答してしまいました。さてさて、こんな事を考えている場合では有りません。まずは、日本よりインターネットで予約した、シカゴのホテルまでたどり着かねばなりません。いつも行き当たりばったりの私ですので、何も考えている筈がありません。とりあえず、空港から出てみようと思い、扉を開けると、ちょっと怖そうなタクシー運転手が、空港を出てくる方々に次々と声を掛けていました。「まずい」と思った瞬間「ヘイ、ユー。」こっちへやって来るでは有りませんか。この後に、次々と起こるシカゴでのハプニング、また感動体験は、後日ゆっくりとお話しますね。大好きなブルースの本場で、とても有意義な1週間の音楽生活を終えた後、今回最大の目的であるネイティブアメリカンに出会う為、ニューメキシコ州のサンタフェ目指して飛行機に飛び乗ったのでした。  

 

              

サンタフェまでの行程としては、シカゴから飛行機でニューメキシコ州の玄関であるアルバカーキのアルバカーキ空港を目指します。近くにロズゥエル空軍基地が有る事でも知られています。アルバカーキ空港からサンタフェまでは、日本で調べた情報によると、シャトルバスと言うのが有るようで、それを利用する予定です。シカゴから飛行機に乗る事2時間、アルバカーキ空港が近くなって来ると、眼下に広がる景色は緑の山々から砂漠地帯へと変貌し、今まで観た事の無い無機質な雰囲気が漂ってきました。しかし、無機質な中にも突然地面が、大きな斧で打ち下ろされたかのように裂けていたり、大きな一枚岩がポツンと現れたり、不思議な空間のようにも観えました。そんな景色に見とれているうちに、飛行機は着陸態勢を取り高度を一気に下げてきました。すると、突然視界に大きな音を立てて軍用ヘリコプターの姿が飛び込んできました。「何ですか、これは。」と度肝を抜かれていると、空港の施設の中にたくさんの戦闘機、ヘリコプターが頭を連ねている姿が目に入り、続けてビックリした事を覚えています。写真やプラモデルでしか見た事の無い戦闘機、軍用ヘリコプターにびっくり。そして「なぜここに。」と不思議に思ったのと、一抹の不安が脳裏を過ぎりました。そうこうしているうちに飛行機は無事に着陸し、またまた皆さんの流れに沿って、空港出口を目指しました。出口が見えてきた辺りで道両脇に立ち誇る迷彩服を着た軍人さんが目に付くようになり、なんだか物々しい雰囲気を感じるようになってきた時に、「ヘイ、ユー。」と大きな声がするのを聴きました。「まさか私じゃないよな、何も悪い事はしていないし、だれか捕まったのかな。」などと勝手に創造をめぐらせながら無視する事にしました。すると誰かがいきなり私の腕を「グィ」と掴むではないですか。突然の出来事に心臓の鼓動は一気に上昇し、勇気を出して振り返ると「やっぱり。」軍人さんでした。「なぜ?」、「どうなるんだろう。」、「人生終わったな。」などとぶつぶつ言っている間にもグイグイと腕を引っ張られて、空港内にある軍施設へ連れて行かれてしまいました。今になって分かりましたが、アルバカーキ空港は、ロズゥエル空軍基地と施設を共有しているのです。軍施設の一室で、訳もわからず持ち物検査、身元確認、滞在予定、などなど約半日間、事細かく調べ挙げられ、その間も「きっと一生ここから出られないな。」などと自傍観も最高潮に達していました。しかし、怪しくないと言う事が分かると、「ソーリー」と言う言葉と供に空港へ返されました。最後に「ホワイ?」と再度聴きなおすと、「ユー、フライトジャケット」と言う返答が返ってきました。実は、私が着ていたジャケット、日本で購入したアメリカのビンテージフライトジャケットだったのですが、これが問題で、アメリカでは軍関係者以外は余り着用する習慣が無く、怪しまれてしまったようです。「そんな事かよ。習慣の違いとは恐ろしいものだ。」軍に釈放された以降は、ニ度とそのジャケットを着る事は有りませんでした。さてさて、気分を取り直してサンタフェの宿泊先へ向かわねばなりません。跳んだトラブルで、空港を午前中出発の筈が既に夕方です。地図からいくと200キロメートル、車を飛ばしても3時間くらいは掛かる筈です。また、シャトルバスと漠然と調べて来ましたが、どんなものだかさっぱりわかりません。空港で調べたり探したりする事2時間、言葉の壁と慣れない習慣に阻まれ、お手上げです。そうこうしていると、日本で言うバスが一台空港から発車しようとしている姿が目に入り、何も考えずバスの前に踊り出て、「ストップ」と叫んでいる自分がいました。運転手は慌ててバスから飛び出してきて、凄い剣幕で怒っています。しかし、宿泊先のチケットを提示した事と私が英語をしゃべれない事、そしてボディーランゲージでシャトルバスに乗りたいと言う事を告げると、運転手は快くシャトルバス待合所まで連れて行ってくれ、「ここで待つように。」と教えてくれました。待つ事1時間、日に焼けた年配の男がやってきて、「ゴー」と言う言葉と供に、私の荷物を担ぎ上げました。見た感じは陽気なメキシカンという感じで、私が言うのもなんですが、けっして柄が良いとは言えません。他にサンタフェへ行く手立ては無いし、とりあえず着いて行こうと思い歩く事しばし、空港の駐車場にやってきました。いつものように英会話は聞き取れませんでしたが彼は、「シャトルバスはこの車だよ。」と言ったように思いました。窓ガラスにヒビが入り、ボディはボコボコのワンボックスで、他にも数名既にメキシコ系の方が乗車され、奥のほうにはライフル銃が積んでありました。車を見た瞬間、また私の心臓の鼓動は高まり、「メキシコへ連れて行かれるな。」と私なりに解釈をしたのでした。しかし、サンタフェへ行く手段は他に無いし、イチかバチか乗ってみようと勢いだけで車に乗り込んだのでした。車に乗り込むと見た目通りで、陽気なメキシカンは私が英語をしゃべれないのもお構いなしに、どんどんしゃべりかけてきます。私はといえば、それ所では有りません。「いつ放り出されるのではないか、メキシコへ連れて行かれるのではないか、この先どうなるのだろう。」などと気がきでは無いのと、心臓の鼓動の早さが止まないのを抑えることで必死です。
         
そんな状態で2時間が経過する頃、陽気なメキシカンはしきりに「サンタフェ、サンタフェ」と繰り返して口にするようになりました。注意して外を見てみると、道路標識にサンタフェと書いて有るではないですか。陽気なメキシカンは私をサンタフェへ届けてくれたのです。ここでやっと心臓の鼓動も鳴り止んできました。すると供に、今度は、「もしかしたら宿泊先まで送ってくれるかも。」という名案が浮かんできました。急に元気になり、宿泊先チケットを取り出し、後はボディーランゲージで宿泊先へ行きたいという事を伝えました。すると陽気に「オッケー」と言って宿泊先ホテルで下ろしてくれました。凄い感謝の念と、「怪しい人だと疑ったりしてすいません。」と言うお詫びの心で一杯のなか、陽気なメキシカンたちが地平線の彼方に見えなくなるまで見送ったのでした。早速ホテルへチェックインです。日本でインターネットを通して予約したサンタフェのホテルは、どうもドライブインだったようで、砂漠の中を走る大きな国道沿いにポツンと建っておりました。そして、サンタフェ独特の建築スタイルであるアドービ様式で造られています。空港からここまで来る道中は、景色を見るゆとりなどまるで無かったため、建っている建物を見る事も無かったのですが、この辺りはほとんどの家がアドービ様式で建てられているようです。
          
アドービ様式と言うのは、サンタフェ辺りに有る独特の赤土を盛って固めた土の家の事です。それでは早速今日の宿泊先へ入る事にします。中に入るとカウンター越しに、人の良さそうなメキシコ系の家族が出迎えてくれました。インターネットより発券された予約票をカウンターの上に出すと、快く部屋のキーを出してくれました。早速部屋に入って今日の疲れを癒す事にしました。部屋に入ってみると、なんと広いのでしょう。そして大きなベッドが2つ並び、大きな冷蔵庫とキッチンまで着いていました。確実に私が注文した部屋では有りません。インターネットで注文した部屋は、シングルで最安の部屋だからです。すぐにカウンターへ戻り、ボディーランゲージで部屋が良すぎる事を伝えると、「ノープロブレム」という返答で、泊り客が居ないので良い部屋をあてがってくれたようです。日本でもそうですが、やはり田舎は良いですね。お言葉に甘えて宿泊する事にしました。その日は移動の疲れもあってか、あっという間に眠ってしまいました。翌日目を覚ますと、早速、サンタフェの街でもネイティブアメリカンの集まるプラザへ行ってみることにしました。それでも、ちょっとずつ分かるようになってきた、つたない英語とボディーランゲージを使ってホテルの店員さんに行き方を尋ねると、伝わるまでに随分時間はかかりましたが快く教えてくれ、タクシーで行くのが一番良いとの事で、タクシーを呼んでもらいました。先日のシャトルバスの件もあり、どんなタクシーが来るのだろうと不安と期待一杯に待っておりましたが、いたって普通のタクシーが迎えにきました。ちなみに、サンタフェでは流しのタクシーは1台も無く、全て電話予約が必要だと言う事も教えてもらいました。車窓を流れる景色は始めて目にするものばかりで、突き抜けるほど真っ青な空の下、アドービ造りの街並みが颯爽と軒を連ね、地面は赤茶げた細かな砂で覆われていて幻想的な空気が流れているかのように思われました。また、まっすぐ地平線まで続く、広い道の彼方にはタオスの山並みが連なっており、サンタフェとは異なる緑あふれる様子が観て取れます。そんな景色にひたっていると、タクシーの運転手が気さくに話し掛けてきて、私もボディーランゲージでサンタフェは初めてだと言う事を答えると、プラザへ着くまでの間、地元の話やガイドをしてくれました。半分も理解する事は出来ませんでしたが、その気持ちとやさしさに感動していると、まもなくプラザにたどり着いたとの合図をしてくれました。「テンキュー」とお世話になった運転手に御礼を言うと、運転手はプレゼントだとネイティブアメリカンとバッファローが描かれた2枚のコインをくれました。そして車窓を指差し、「あれがサンタフェトレイルだよ。(かつて、ニューメキシコ州と大都会を結んでいた有名な列車)」と最後のガイドをしてくれました。その優しさに涙が出そうになるのをグッとこらえて、プラザの入り口で停まったタクシーへ手を振り別れたのですが、なんともサンタフェの人々は暖かい。さて、いよいよプラザの中に足を踏み入れます。既にプラザの奥のほうまで眺める事が出来るのですが、それは何処かの映画のセットか絵画の中の風景かというくらい素晴らしく綺麗な街並みです。雲ひとつ無い真っ青な空に、映える赤茶色のアドービと、窓には空と同じ色のターコイズブルーの縁取りの街並み、その間を駆け巡る道は石畳となっており、全体の調和を考えながら造られたアートな街とでもいいましょうか。早速、街の中を一通り歩いてみる事にします。プラザは広場を中心にして周囲3キロメートル四方に広がった街ですので、十分歩いて回れる広さです。歩いていて最初に感じたのは、ネイティブアメリカンの住居とネイティブアメリカン関連のショップで出来ている街だなという事でした。そして、アドービ造りの学校、病院、博物館などなど生活に必要な施設も全て町全体の景観を考えた造りとなっていました。そうこう歓心しながら街の中心に向かって歩いていると広場が見えてきました。一変が50メートルくらいの四角い広場の中心には高い柱が立っていて、プラザの中心だと言う事を現しています。柱を中心に4方向を囲むストリートにはそれぞれ特色があり、中でも西側の総督堤跡に面するストリートにはネイティブアメリカンが立ち並び、インディアンジュエリー、ポッテリー、サンドアートなどなどのネイティブアメリカンクラフト品を販売していて、素敵な商品が多数ありました。各ストリートをゆっくりと探索した後、軒を連ねるネイティブアメリカンショップに入ってみる事にしました。何処のショップもそれぞれに特徴が有り、ネイティブアメリカンジュエリー中心のショップ、ポッテリーといってネイティブアメリカン独特の壷を取り扱うショップ、カチーナ人形といってネイティブアメリカン独特のモチーフ(精霊)を表現した木製の人形を取り扱うショップなどなど、私にとっては興味津々の品々が所狭しと並んでいました。また、各ショップの店構え、雰囲気、オーナーの人柄、看板などもとても素敵で、商品を見るのもさることながら、各ショップの雰囲気を感じるのも凄く楽しくなってきました。次から次へと沢山のショップを渡り歩いていると、ショップストリートの奥先にサンタフェではめずらしく高い建築物が観えてきました。ショップ巡りは一時中断して、周りとは異なる建築物に行ってみる事にしました。ある程度近づくと、建築物の正体が判明し、日本を出る前に本で観たサンフランシスコ大聖堂だと言う事に気が付きました。
           
本物を目の前にすると、写真では分からなかった細部まで行き渡る細かな造りと美しさは、想像を遥かにしのぐものでした。歴史的な出来事から観るとネイティブアメリカンにとって、決して
まれた建築物では有りませんでしたが、その造りは素晴らしいものです。そして、サンフランシスコ大聖堂の向かいにはネイティブアメリカンミュージアムというネイティブアメリカンの博物館が有り、早速入ってみる事にしました。ネイティブアメリカンの歴史、生活形態、クラフト品の説明などなどの紹介が行われており、ネイティブアメリカンに興味のある方は、一度は目にしておくと良いと思います。ただ、説明は英語ですのでちょっと分かりにくいかもしれませんが。一通り博物館内も見終わり出口から出ようとすると、この近辺をいろいろと紹介したフリーパンフレットが置いて有りました。一枚とって開いてみると、アートギャラリーストリートというような紹介で、キャニオンロードというのが載っていました。またまた興味津々心が動いたのと、ここから2〜3キロ位と言う事もあり、早速行ってみる事にしました。
            
パンフレットの地図と案内看板を頼りにキャニオンロードを目指して歩いていると、学校、共同住宅、ホテルなどなど現地の生活の様子を垣間見る事となり、これまた貴重な経験でした。しかし、どの建物を見てもアドービ様式で建てられ、また、そこで暮らすネイティブアメリカンたちもその景観に溶け込んでいるかのようで、なんだか素敵な空間をかもし出していました。そうこうしているうちにアートギャラリーストリートであるキャニオンロードへ到着しました。入り口からゆっくりと登り坂の道になっていて、その両脇にはお洒落なアーティストのギャラリーが点々と建ち並んでいます。それぞれのギャラリーは外から見ただけでも個性的でお洒落な造りです。早速順番に入ってみる事にしました。最初に入ったのはネイティブアメリカンの絵画を描き展示しているギャラリーでした。ネイティブアメリカンを描いた作品は髪の毛一本まで細かく描き、顔の表情、また服の質感などとても表現力豊かに描かれ、素晴らしさを通り越して感動すら覚えました。他に馬、鷲などなどどれも素晴らしい出来栄えで30分位見入っていました。次のギャラリーへ向かう途中で「こんなペースで廻っていたら、永遠と続くギャラリーをいくつ見れるのだろう。」と思い直し、私の趣味に合いそうなギャラリーだけを覗いていく事にしました。ネイティブアメリカンの彫刻家、ドラム(太鼓)製作家、ポッテリー
()製作家などなど時間の許す限りいろいろなギャラリーを観て廻り、ネイティブアメリカンの芸術へ対する思いと技術の高さを知り得る事が出来ました。最後のギャラリーを出る頃には空はオレンジ色に染まり始め、そろそろ日が沈む事を示していました。ゆうちょうにしていとホテルへ帰れなくなってしまうので、急いでプラザの中心まで戻りました。今日のプラザ巡りはここまでだと諦め、タクシーを捕まえようと30分くらい周囲を探しましたが一向に見つかりません。そうです、サンタフェでは流しのタクシーは一台も無く、電話連絡をしなくては来ないのですが、英会話が出来ない私にとっては到底呼ぶ事など出来ません。冷たい汗がジワッと出てくるのを感じましたが、気を取り直して、別の方法を考える事にしました。「そういえば、さっきバス停が有ったよな。」と思い出し、早速行ってみる事にしました。都合の良い事に宿泊先ホテルの名詞を持っておりましたので、名詞片手に行き先の違うバスの運転手さんへ一台ずつ問い掛けて行き、6台目にようやく宿泊先ホテル方面へ向かうバスを見つけることが出来ました。しばらくするとバスは発車し、同乗している客たちはそれぞれ目的のバス停が来ると降りていきます。そして降りる時に日本で言う、下車ボタンを押し、バスの運転手さんへ次のバス停で降りる事を告げているようですが、私には一向に下車ボタンを見つける事が出来ません。他の客の様子をよーく見ているのに。そして、車窓の景色をよーく見ているのですが、何処で降りればよいのかまったく見当もつきません。こうなったら最後の手段です。運転手さんにお願いするしかありません。またまたホテルの名刺を出して、運転手さんの真後ろの座席より「プリーズ、ゴートゥ、ホテル」。と怖持ての屈強そうな運転手さんへ語りかけたところ、無表情でチラッと左手を挙げました。「これってどうなんだろう。」と不安な気持の中走る事10分、バスはゆっくりと止まり運転手さんは私を見て、またちょっとだけ左手をかざしました。ありがたい事に運転手さんは私の宿泊ホテルの前で停まってくれたのです。とても感謝の気持ち一杯でバスを後にする事となりました。

 

            

宿泊ホテルへ戻ると、またメキシコの陽気な家族がカウンター越しに笑顔で迎えてくれ、ようやく「ホテルへ帰れるのだろうか。」という不安と緊張感から開放されたのでした。部屋に戻ると、安心感からか、とてもお腹が減ってきたので、食事を調達する為に外出する事にしました。「そういえば、今朝のタクシーの車窓から、大きなドラッグストアが見えたなー。」というのと、なるべく現地の方の生活に触れてみたいというのも有り、そのドラッグストアを目指す事にしました。しばらく歩くと直ぐにドラッグストアは見えたのですが、なかなかたどり着きません。また、近づくに連れてその大きさの片鱗が見えてきました。30分くらい歩いたのでしょうか、やっとドラッグストアにたどり着く事が出来たのですが、その大きさは圧巻で、家の近所の野球場くらいは有るのではないかと思うほどです。早速入って買い物をすることにしました。中に入ると、その広さにまたビックリすると供に、並んでいる商品たちの大きさにもびっくりする事となったのでした。コカコーラ一本5リッター、牛乳一瓶3リットル、ビールは10リットル入りサーバーなどなど飲み物は片手で持てないほどの量であったり、食肉では鶏肉は丸1匹、牛肉のブロック5キロ、1キロ入りのビーフジャーキー、お菓子も1キロのポテトチップス、1キロのミルクチョコレート、アイスクリーム1箱2キロなどなど度肝を抜かれました。そして、お客さんはごく普通にその商品を大きなショッピングカートに入れて買い物をしていました。「これだけ大きな食品を買って帰って食べていたら、確かに大きくなるわな。」と日本ではあまり見かける事の無い大きな買い物客の多い店内を見渡す私でした。私も負けじと1週間分の食料を買い込む事にしました。食パン、ハム、バターにスイートコーン、牛乳などなど一通りショッピングカートに必要な物を詰め込み、いざレジへ向かいました。レジに着くと、支払いを待つ行列の一番後へ並び順番を待つ事にしました。順番を待つ間レジでの清算の様子を見ていると、なんだか今まで観た事の無い方法で行っています。まず、ベルトコンベアのように回転しているレジカウンタの上へショッピングカートより商品を取り出して載せ、商品が送られて行った先に店員が立っていてレジに商品代金を打ち込んでいます。その際、前後の客の商品が、回るカウンタの上で混ざらないように客ごとに仕切りバーのような物を置いているようです。そして、一通りレジに商品代金の打ち込みが終わると商品代金を支払って終わりのようです。だんだん自分の番が近づいてくると、初のサンタフェでのレジ清算に緊張してきました。そうこうしているうちに私の番がやって来ました。緊張しながら早速チャレンジです。まずショッピングカートの商品をレジカウンタに載せて、最後に備え付けの仕切りバーを載せて、後は清算待ちをしてと意外とスムーズに事は運んでいます。レジへ商品代金の入力も終わり商品代金がレジに表示されましたので、財布から100ドル紙幣を出して店員さんへ支払いました。すると、店員さんは急に険しそうな顔つきになりました。「金額が少なかったのかな。」などと少々考えましたが、そんなはずはありません。すると店の奥のほうからガードマンがやってきて、私が支払った100ドル札を調べ始めました。ふっと並列に並ぶ他のレジカウンタを眺めて見ると、全ての皆さんがカード支払いをしている事に気が付きました。どうもここら辺りでは偽札が多いらしく、金額の多少に関わらずカード支払いが常識のようです。私の支払った100ドル札は間もなく偽札でない事が判明し、事無く清算を終える事が出来たのですが、私の通ったレジカウンタは私のドル紙幣を使ってしまったトラブルの為に、長い待ち行列ができてしまっていました。その土地の常識を知らないというのは怖いものです。一通り買い物を終え、ホテルまでの道のり約30分を、今度は1週間分の食料を持って歩かなければなりません。3日間くらいにしておけば良かったななどと呟きながら帰路を急いでおりますと、「こんにちは。」と日本語で話し掛けられました。びっくりして声のする方を向きますと、声の主は、青いピックアップ車から身を乗り出して私に手を振っていました。この辺で日本人を見かけるのは珍しいと言う事で声を掛けたそうです。それから立ち話をする事1時間、意気投合し、その方の自宅まで招かれて夕食をご馳走になったのでした。夕食を食べながら現地の様子や生活習慣を教わったり、日本の話で盛り上がったりと楽しい一時を過ごしました。そして、話の中で、私はネイティブアメリカンを尋ねてここまでやってきた事、また、その方は仕事柄、ネイティブアメリカンの居留区に行く事が多く、明日、明後日も現地へ赴くとの事で、私も同行させてもらえる事となりました。どうやってネイティブアメリカンの居留地区まで行こうかと思案していた最中、偶然ですが、とても良い方との出会いで、なんとかなりそうになってきました。食事を終えた後、熱いコーヒーを頂き、ホテルへと帰宅し、明日から起こる出来事に夢を馳せながら眠りに着きました。連日の疲れも有ってかぐっすりと眠る事ができ、翌日は爽快な目覚めを迎える事ができました。今日はネイティブアメリカンの居留地へ連れて行ってもらえるという事もあって、目覚めと同時に行動開始です。先日買い込んだ食パンとチーズを牛乳で流し込み、身支度を整えて早速待ち合わせの場所へ向かいました。程なく落ち合う事が出来、青いピックアップバンに乗り込みネイティブアメリカンの居留地へ向けて「いざ、出発。」です。真っ青な雲ひとつ無い空の下、遥か彼方に見える山のふもとまで続く真っ直ぐな一本道をひたすら突き進む事となりました。今日の行き先を聞いてみると、古い歴史があり、ネイティブアメリカンの療養地であるチマヨに立ち寄り、空中都市と呼ばれポッテリー()のアーティストが多い事でも知られているアコマまで足を伸ばして帰って来るという事でした。ほんのちょっと隣町までと言う事でしたが、約500キロメートルの工程になるようです。この時、アメリカというのは本当に広大な国だと言う事を改めて思い直しました。何処までも続く真っ直ぐでだだっ広い道路と車窓に広がる果てしない荒野の景観、そして車で500キロメートルの工程など日常のドライブ位の勢いです。

     

刻々と変化する車窓の景観、無駄に広い道だと思っていた道路一杯の車幅を持つコンボイが爆走していく姿、映画に出てきそうなアメリカンな看板など観る物全てに歓心する事1時間、荒野の中にポツンと現れた大きなドライブインで車は止まりました。この先当分の間ドライブインは無いとの事、サンタフェ近辺は標高が高く脱水症状を起こしやすいとの事で飲み物調達をする為でした。中に入ってみると食堂、おみやげ物コーナー、衣類、食料品と豊富な商品が所狭しと並んでいて、ちょっとビックリしたのと陽気な店員さんがひたしげに話し掛けて来たのが印象的でした。飲み物をたっぷり調達し、再びチマヨを目指して出発です。真っ直ぐな荒野の中を突き抜ける一本道をひた走る事2時間、だんだんと車窓から見える風景は変化してきました。荒れた砂地だった大地は緑掛かった草地へとなり、ひたすら真っ直ぐだった道も山沿いに蛇行をするようになってきました。だんだんと山中の丘陵地帯へ入ってきたようです。そして、道路を行き交う車もグッと少なくなり道幅も狭まってきました。チマヨが近づいてきた事を予感させるような雰囲気です。チマヨは山中にひっそりと佇むネイティブアメリカンの湯治場として、またエル・サントゥアリオという聖なる土が湧き出る井戸を持つ聖堂があり、神秘的な魅力を持つ町です。町へ近づくに連れて鈍感な私も不思議な力を感じてきたようです。程なくすると更に道は狭く険しくなり、車が一台通るのがやっとで、辺りに生い茂る木々は道に覆い被さり「進めるのかな」と思うほどでした。しばらくすると突然目の前がパッと明るくなり、年季の入ったアコマの街並みが拡がりました。細く蛇行した川沿いの道の脇に点々と列なる住宅、施設はやはりアドービ様式で造られており、とても古い物のように感じられます。町の中心にはエル・サントゥアリオ聖堂がひっそりと佇み、静けさと静寂が町全体を覆っているかのようです。早速車を留め、同行者は用事を済ませに、私は近辺の散策とエル・サントゥアリオ聖堂を見学することにしました。
        
川沿いのメイン通りを歩いていると、唐辛子で作った装飾品、ブルーコーンを繋げて作った装飾品が軒先に飾られているのが目に付いたのと、日本人が珍しいのか、道を行くネイティブアメリカンたちは興味津々という感じで私を観ていました。唐辛子装飾品を売る売店で装飾品を購入したところ、「どこからきたの。」という会話をきっかけに、店員さんのおばちゃんと何時の間にか仲良くなっていました。そして、エル・サントゥアリオ聖堂を案内してくれる事になりました。わずかに理解できるようになった英会話とボディーランゲージを頼りにネイティブアメリカンのおばちゃんと娘さんの後をついていく事数分、アドービ様式で造られたエル・サントゥアリオ聖堂が見えてきました。サンタフェで訪れたサンフランシスコ大聖堂とは打って変わって、コジンマリとした質素でいて趣の有るアドービ様式の建物です。日本で言うならばサンフランシスコ大聖堂は清水寺、エル・サントゥアリオ聖堂は銀閣寺といった所でしょうか。おばちゃん、娘さんと供に中へ入ってみることにしました。中は20畳位の礼拝堂と4畳くらいの小部屋が2つという造りになっていて、まず足を踏み入れるのは礼拝堂へとなります。壁上面には古いステンドグラスが嵌め込まれ、うっすらと日差しが差し込んでいました。正面には大きな祭壇が設置され、祭壇のほうへ向かって古木のベンチシートが規則正しく設置されていました。礼拝堂に足を踏み入れると、ヒンヤリとして張り詰めた空気がジンワリ肌に伝わってきました。おばちゃんは一生懸命私へ聖堂の説明をしてくれているのですが、まだ私の英会話力では理解する事が出来ず、大変申し訳ないという気持ちと、理解できたら地元の人しか知らない事まで教えてくれているのだろうなと悔しい気持ちで一杯になりました。しばらく礼拝堂での雰囲気を堪能した後、小部屋に入ってみる事にしました。礼拝堂の祭壇を正面にして、左手側奥の方にその入り口は有りました。小部屋の入り口から左手側は、古くから伝わる絵画、聖書、文献がコジンマリと展示
(置いて有るだけ)されており、右手側は、ガランとしていて何も無く、周囲と違うのは、床が土間でなく柔らかな土だという事でした。おばちゃんはその小部屋の砂を、小さな布袋をポケットから取り出して、詰め始めました。そして一杯になると私の手の平へ「あげる」と言わんばかりに載せてくれたのです。「ありがとう」と最初にお礼を言い、その後ボディーランゲージで井戸を掘る真似をすると、にこやかに頷いたのでした。やはりここが古来より伝わる土の湧き出る井戸、そしてこの袋に入っている土は、井戸より湧き出た土なのです。言い伝えによると、この土は万病に効くといわれ、傷口や悪い所に塗っておくと効能があるそうです。そして沢山の人が持ち帰りますが、涸れる事無く沸き出で続けているそうです。なんとも神秘的な話と、目の前の現実にしばしの感動を覚えました。素晴らしい聖堂、またチマヨの景観を観たり、つたない英会話とボディーランゲージなどを駆使して、地元ネイティブアメリカンとの触会いなどをしていますと時間がたつのもあっという間で、そろそろ同行者と青のピックアップバンで待ち合わせの時間が近づいてきました。案内をしてくれた、ネイティブアメリカンでもある唐辛子装飾品屋さんのおばちゃん、娘さんに御礼を言いうと、「グッバイ」というと笑顔で見送ってくれたのでした。まだまだチマヨの探索、ネイティブアメリカンとの交流を行いたい気持ちで一杯だったのですが、ここは仕方ありません。待ち合わせの時間にお互い集合し、アコマを後にしたのでした。車中にて、同行者にチマヨでの出来事を話しましたら「良かったね。なかなか案内まではしてくれないよ。」と言われ、本当に良い人と出会ったんだなと幸運に思いました。サンタフェ、チマヨとどちらの町で出会ったネイティブアメリカンも殆どの方が物静かで、笑顔で、親切にしてくれました。体はかなり大きくて、顔も強面で話すまではかなり勇気が必要ですが。日本で抱いていたイメージとは既に少々ズレ始めできています。さて、次に目指すは空中都市アコマです。そしてアコマへの道中に有るネイティブアメリカン独特の織物、オルティガの織物工場に立ち寄っていく事になりました。アコマを出て30分くらいすると、生い茂った木々が突然無くなり、そこには独特のロゴマークを掲げたオルティガの工場が佇んでいました。工場といっても小学校の木造体育館といった感じで、周りの風景にしっくりと溶け込んでいました。到着すると、早速正面の扉をノックして反応を待つ事数分、物静かそうな社員さんが出て来て、快く商品の展示場へ案内してくれ、好きなだけ見て行ってくれとの事でした。オルティガとはネイティブアメリカンが織機で作る布の事で、丈夫で保温性、通気性に優れています。またネイティブアメリカン独特の文様が織り込まれ、素敵な雰囲気が魅力です。ベスト、コート、壁掛けなどなど様々な品に使われます。日本でもたまに見かけますが、凄く高いですよ。ここに立ち寄ったのは、ネイティブアメリカンの文化を知りたいと言う事でだったのですが、素敵な商品が沢山あり、価格も日本とは比べ物のならないほど安かったので、私はベストを2枚買ってしまいました。商品を一通り見せてもらった後、今度は織物工場を見せてもらいました。昔ながらの製法で一点ずつ丁寧にしっかりと作り上げられる様子は圧巻でした。織機は日本で言う「鶴の恩返し」で鶴がハタを織っていたのとそっくりのように思いました。その後一通り工場内を案内して頂いた後、オルティガ工場を後にしましたが、ネイティブアメリカンの文化を垣間見れた事と、始めて見るその光景に、またまた感動したのでありました。はりきって、天空都市アコマを目指し再スタートです。しばらく走ると険しく狭かった山道は、だんだんと広くなり、視界もだんだんと開けてきました。そして1時間も走ると、また荒野の中のだだっ広い、ひたすら真っ直ぐの一本道となりました。サンタフェを出た時と違うのは、草木が一本も無い砂漠だと言う事です。

      

日本で私の暮らす地域に鳥取砂丘という日本最大の砂丘がありますが、今、目の前にしているのはそんな規模では無く、果てしなく続く砂漠で、「車が故障したら死んじゃうのだろうな。」と生命の危険を感じるほどの大きさです。見渡す限り何も無いと言うのは、これまた初めての体験で、しばらくの間流れる車窓の景観に見入っていると、「そろそろ、遅い昼ご飯にしようや。」と声を掛けられると供に、遥か彼方に大きな建物がポツンと建っているのが見えてきました。建物に着くと、その正体がわかりました。これが噂に聞くカジノだったのです。それにしても大きく煌びやかで、「何処から来たのだろう。」と言うくらい人々が集まってきていました。私たちは、スロットマシーンを回す大勢のお客さんを横目に、施設内のレストランに入り、さっそく食事を摂る事にしました。いろいろなメニューが有ったのですが、二人ともはらぺこでしたので、バイキングチケットを購入し、いろいろな料理を腹いっぱい食べる事にしました。さすがカジノだけあって「8ドルで約50種類の料理をどれだけ食べても良いだなんて。」などと感動しながら料理を眺めると、どれも一品一品が大きい。ステーキなど一枚200グラムは確実に有ると思われ、コーラは一杯がペットボトルくらいは有るのではないかという勢いです。周りのお客さんを観てみると、取り皿をステーキ、チキン、ピザ、スパゲッティと山盛りにしてモリモリとたいらげ、どんどんおかわりをしていましたので、私も負けじと挑みましたが、ハンバーガーとピザを食べたところでダウンとなりました。カジノをちょこっと見学し、お腹も一杯になりましたので、そろそろ出発です。もたもたしているとアコマへたどり着けなくなってしまいます。それからどれくらい何も無い砂漠を走ったか定かでは有りませんが、ポツン、ポツンと大きな石が砂漠の中に現れ始めました。一つの石が5〜15メートルは有り、その光景は奇妙極まりありません。同行者に聞いてみると、全て自然に出来た一枚岩で、ここを通るドライバーによって石ごとに名前が着けられているそうです。ラクダ石、双子石などなど似ている物の名前が着けてあるそうです。ラクダ石、ワシ石、双子石などなど次から次へ現れる石の景観を楽しみながら走る事1時間、突然景色が急変し、西部劇を思わせるような岩山地帯へとなっていきました。岩山の斜面は削ぎ落としたかのように絶壁で、山自体も奇妙な幾何学的形をしています。なんでも、この山々も全て一枚岩で出来ていて、現地ではメサといわれるそうです。そのそそり立つメサの隙間を縫うようにして道路が走っていますので、車窓から観える景観は正にカウボーイ気分で最高でした。ちなみにアコマ近辺のこうした景観は、西部劇映画の撮影現場に使用されるそうです。だんだんと写真で観たアコマの景色になってきました。いくつものメサを通過していくうち遠くに大きく観えていたメサの上に、町の存在が確認出来るようになってきました。そうです、彼方のとても大きなメサの上に観える町がアコマなのです。昔々、ネイティブアメリカンの部族間争いがあった時代、農耕民族であったアコマ族は争いを避ける為にメサの上へ町を築いたとも、スペイン軍の略奪から身を守るためにメサの上へ町を築いたとも言われ、真実は定かでありませんが、アコマの町を目前にすると、空中都市たるゆえん、そして壮大な景観に圧倒されてしまいました。アコマの全貌が明らかになってくるに伴い「そそり立ったメサの上にどうやって町を造ったのだろう。」、「毎日上り下りしているのかな。」などと不思議な事や日常生活の不便さなど、身をもって感じてきました。それから走る事30分、ようやくアコマへ到着しました。アコマの町があるメサの下に着くと、町は既に視界に入らなくなっていました。それにしても凄く大きいメサで、頂上まで200メートル位はあるでしょうか。早速同行者とメサを登って行くことにしました。まず、上り口がまったく見当たりません。同行者の後を着いて行くと、崩れた岩肌の隙間に有る申し訳程度の獣道に入っていき、ガラガラと石を転がしながらメサを上り始めました。「えっ」と思いましたが、私も遅れないようにメサを登り始めました。それにしてもなんと急斜面で足場の悪い事でしょう。きっと転げ落ちたら、ただでは済みそうに無いので、気合を入れて登りました。中腹で一休みし、来た道を振り返ると、余りの高さに立ちくらみと、青のピックアップバンが米粒のように小さく見えました。それから20分、やっとの事でメサの上へたどり着き、アコマの町を目にする事となりました。
            
正にメサの上全体が一つの町となっており、中心に集合住宅、集会所があり、それを取り囲むようにして民家が軒を連ねています。教会、学校など生活に必要な施設も整っており、町の機能も通常の町と変わりません。なんと言う事でしょう、素晴らしいの一言に尽きます。町から見える景観も360度の絶景で、周囲は隈なく見渡せます。こんなパノラマ写真のような景観は生まれてこの方見た事が無く、そして大感激です。こうしてアコマから果てしない荒野を眺めていると、今にもカウボーイが走って来そうな雰囲気です。そんなこんなでアコマの町と360度の大自然の景観を眺めているうちに同行者は、村の長老を連れて来て紹介してくれました。長老は、真っ黒に日焼けし、時代と供に刻み込んできた沢山のシワを笑顔で掻き消しながら歓迎してくれました。そしてありがたい事に、町を案内してくれる事になりました。最初に向かったのは、町の中で一番高い建物のサン・エステバン・デル・レイ教会でした。アドービ様式で造りあげられ、天辺には白く塗られた十字架が真っ青な空に映える、美しくて歴史を感じる教会です。中に入ってみると大きな礼拝堂に、ステンドグラスからうっすらと光が差し込み、正面には大きなマリア像が奉られていました。そして時間が止まったかのような静寂でヒンヤリとした空気が礼拝堂の中を流れていました。ここの教会にもネイティブアメリカンたちには特別な思いがあるようで、長老に尋ねてみました。スペイン人たちがこの地に入ってきて土地を奪い、スペイン人の新興宗教であるキリスト教の教会を強制的に建てたそうです。そしてこの地で暮らすネイティブアメリカンへキリスト教を強引に押し付け、教会へと通わせたのです。自然界の全ての物に魂が宿り、神が存在するというネイティブアメリカン独特の信仰は弾圧されてしまったのですが、キバという独自の礼拝堂をスペイン人の目を欺くように作り、そこで本来の祈りを捧げてきたそうです。そこで、教会の外に出てキバへ行ってみる事にしました。外から見るとアドービ様式の普通の家で、天井から真っ青な空に向けて一本の太い木の柱が斜めに突き出しています。この柱を通じて自然界に存在する神と交信をするという事ですが、キバが何棟も連立するその光景は不思議な空間のように思えました。

     

 

ちなみに神聖なるキバの中には、入れないようです。次に向かったのは町の名物であるポッテリー造りが得意な方のお宅へ行ってみる事になりました。家に到着すると、すでに軒下の大きなテーブルの上に所狭しと色々な形、模様、大きさのポッテリーが並べられていました。また、別の家の軒先にも所々にポッテリーが並べられ、その地区はポッテリーの製造工場のようになっていました。案内された一軒の家へ入ると、黒い民族衣装を身にまとった優しそうなおばあちゃんが作業台に向かい、ポッテリー作りに没頭していました。私たちに気付くと笑顔で会釈をし、居間のテーブルへ案内してくれました。しばらくすると家の釜で焼いたコーンクッキーと地元のお茶を持って出てきて、私たちにご馳走してくれ、ポッテリーの話を語ってくれました。ネイティブアメリカン独特の壷ポッテリーは、ひとつひとつポッテリーアーティストによって手作業により作り上げられ、似たものは有っても同じ物は存在しません。ポッテリーの形、また表面に描かれる文様、モチーフはポッテリーアーティストの自由で個性的な発想から生み出し、描き作られていきます。それは一人一人のアーティストの持ち味、発想が詰め込まれた作品だと言う事を教わりました。手にとってみると、確かに個性的で繊細なその作品は、不思議な魅力を放っているかのようでした。すべて素敵な作品ばかりなのですが、中でも気に入った作品を数点購入し、おいしいクッキーとお茶を頂いて、その場を後にしたのでした。ネイティブアメリカンの文化の一つでもあるポッテリー作りの様子を目の辺りにし、製作者の作品に対する思いを聞き、大いなる感動と、多少なりともネイティブアメリカンの文化に触れる事が出来たように思いました。外に出ると、真っ青だった快晴の空も淡いオレンジ色に染まり始め、日没が近い事を告げていました。そろそろ帰り支度を始めないと明日の工程へ影響が出そうな時間となってきましたので、残念ながら帰路に着く事にし、長老に御礼を言い、またまた170メートルのロッククライミングをしてメサを降りたのでした。
        
帰路、車窓を流れる色とりどりのイルミネーションを眺めながら、今日有った出来事を思い返してみると、沢山のネイティブアメリカンとの出会いと触合い、また文化とクラフト品の数々を垣間見ることが出来、私にとっては大変有意義な1日だったように思います。そしてここまで連れて来て頂いた同行者の方に感謝です。滞在ホテルに到着したのは午前2時を回った頃で、部屋に入ると、心地よい疲れと明日への期待を抱きながら一瞬にして眠りに着いたのでした。翌朝7時に目を覚ますと相変わらずの快晴で、素敵な一日を予感させてくれる朝です。出発の準備を整えて急いで待ち合わせ場所に向かいました。程なく、先日同様同行者とおち合い、青いピックアップバンに乗り込み出発です。今日はネイティブアメリカンジュエリーの製作地でも有名な、タオスプエブロに行くとの事でした。私も日本を出発する前からタオスプエブロには興味が凄くあって、文献を読んだり、写真を観たりと想いが深い所でもあります。先日とは異なる方向に向かい、アルバカーキの街中を突っ切っていく事になりました。サンタフェ郊外からラスベガスへと続くハイウェイに乗ると、片側6車線の広大な車線へと拡がり、日本では有り得ない大きなトラック、バス、乗用車、バイクなどがひっきりなしに行き交っています。アメリカで初のハイウェイ体験となったのですが、スケールの大きさと車社会だと言う事を思わせる利用率の多さに圧倒されそうになりました。2時間ほど走ったところで、タオスプエブロがひっそりと佇む山々を目指すためにハイウェイを降り、またまた荒野の一本道を突き進む事にしました。先日とは雰囲気が異なり、荒れ果てた荒野にはセージの一種だと思われる香草が地面に張り付くように生えています。その姿は奇妙な事に、ちょうど枕の大きさぐらいに群がりながら、辺り一面を覆い尽くしていました。そういえば、アルバカーキ空港に飛行機で到着する寸前に見た大地の斑点模様は、この植物群だったのだななどと納得する事となりました。辺り一面に広がる奇妙な光景を横目に、平らで荒れ果てた大地を走っていると、突然橋が現れました。平らな大地ですので、橋の存在にまったく気が付きませんでしたが、相当大きいようです。好奇心大せいの私は、橋の手前で車を止めてもらい、歩いてみる事にしました。橋にたどり着き、その景観の全貌が目に入った時の驚きといったら、たとえようの無いくらいの衝撃でした。荒れ果てて平らな大地がパックリと突然裂け、高さが数キロは有ると思われる斬り立つ裂け目の底に大きな川が流れておりました。そして裂け目の中だけは密林のように青々とした植物が育ち、鳥たちが飛び交い、荒れ果てた地上とはまるで別世界のように思われました。
            
ちなみに裂け目の底を流れる川はリオグランデ川といって、太古の昔からネイティブアメリカンと供に時間を共有してきた聖なる川で、そこから解き放たれる水しぶきと息吹は神聖なる空気を漂わせています。突然の出来事に面を食らったのと大自然の景観の感動に酔いしれながら車に戻り、再びタオスへの道のりに着いたのでした。それにしても、ニューメキシコ州の大自然は広大で、不思議で、変化に富んでいてますます虜になってしまいそうです。橋を渡り終えるとだんだんと緑も増し、大地の起伏も現れだし、辺りは山岳地帯へと変化していきました。山岳地帯を程なく走る事約1時間、やっとタオスの街並みが見えてきました。今回、私たちが目指すのはさらにタオスの町から1時間、山中深くに足を伸ばしたタオスプエブロですので、ここで休憩と食事を摂る事にしました。サンタフェを出発して、かれこれ5時間、車で座りっぱなしのおしりもガビガビになってきました。タオスの町は周囲にプエブロ
(ネイティブアメリカンが古来より暮らす集落)が多いと言う事もあり、インディアン色の濃いい町のように思えました。街行く人々は伝統ある民族衣装に身を包み、モカシンを履き込み、慎ましやかに歩いています。ネイティブアメリカンクラフト品の専門ショップも数多く存在しているようで、街全体がアメリカの古き良き時代を髣髴させるかのようです。早速同行者の行きつけの美味しいレストランに入り、食事をオーダーしました。私はコーンブレッドとレンズ豆の煮込みスープを注文し、しばらくすると、とてもよい香りと供に運ばれてきました。食事は思ったとおりの出来栄えで、「これぞ、アメリカの荒野。」という味付けを堪能しながら、あっというまに平らげました。食事を済ませた後、時間に余裕が無いながらも、同行者に無理を言って街中を散策してみる事にしました。それにしても、西部劇の中に迷い込んだような街並は、素晴らしいの一言です。レストランからテクテクと歩いていると、ネイティブアメリカンクラフト品街にたどり着き、シルバー細工、民族衣装、カチーナ人形、ドラムなどなどの様々な専門店が軒を連ねておりました。それはそれは素敵で、魅力的で、ずっと眺めていたいと思わせる出来栄えの品ばかりでしたが、時間が無いと言う事も有り、じっくり眺めるのは次回へ見送りする事にしました。最後にタオスモカシンというモカシンの老舗に入り、足のサイズを計測した後、オリジナルモカシンを作ってもらうことに成功し、出来上がった際には日本へ送ってもらうようお願いしておきました。そんなこんなでうろうろしているうちに、時間はあっという間に経ち、急いでタオスプエブロへ向けて出発する事にしました。タオスから更に山中へ入って行くと、だんだん道を行く車の数も少なくなり、木々が生い茂る鬱蒼とした景観へ変わっていきました。大きな牧場を抜け、川を渡り、車で走る事1時間、いつの間にか道も砂利道となり、鬱蒼と生い茂っていた木々たちもまばらになって山腹の平原地帯へ抜けたようです。すると、視界が開けたのと同時にアドービ様式の大きな住居と一本の高いポールが観えて来ました。とうとうタオスプエブロへの到着です。前方にだんだんと近づいてくるタオスプエブロは、辺りの景色に違和感無く溶け込み、真っ青な空とバックに広がる山々に守られているかのごとく存在し、壮大な大自然と一体化しているかのように観えます。

           

程なくの後、タオスプエブロへ到着し、いよいよ中へ足を踏み入れます。プエブロは集落全体が気の柵で囲まれており、昔は他部族、スペイン軍などの来襲から身を守っていた事を感じさせます。大きなゲートを潜って中に入ると、最初に目に着くのがサンフランシスコ・デ・アシス教会です。アドービ様式で作られた大きな教会で、入り口の門は真っ白にペイントされています。真っ青な空に真っ白な教会が際立って聳え立ち、何か心に訴えるものと、景観的なコントラストが印象的でした。更に中へ歩むとプエブロの中心だと思われる円形の広場に出ました。そこからは、この広場を中心にして放射状に広がるプエブロ全体が見渡せるのと、夕日があたると真っ赤になり、その姿はまるで血に染まったかのように見えるという「血に染まる山」が観へ、その山とプエブロ、そして山から流れ込んでくる小川が織り成す景観は壮大で神秘的なものでした。その広場の中心には、車の中からも見えた高さが30メートルは有ろうかというポールと、独自の儀式に使用する祭壇が建てられており、事有る事にここへ集まり集会を開いているようです。また、その広場に沿ってアメリカ最古の建築物住居と言われている「北の家」と言う共同住居が建っています。非常に大きなアドービ様式の建物で、沢山ある扉は、空の色と一緒なスカイブルーにペイントされ、とても鮮やかに映えて観えます。その隣には、アコマでも観る事の出来たネイティブアメリカン本来の祭壇であるキバが設置され、神聖な場所だと言う事が垣間見れます。そして、その周りにはアドービ様式で作られた民家が放射状に広がっています。全体の景観を見ていくうちに気になる事が出てきました。電線、ガス管、水道管などのライフラインがまったく見当たらない事です。廻りに居られるプエブロの住人に聞いてみると、やはり無いとの事だったのですが、伝統ある生活スタイルを守るために、遭えて設置しないという信念からだそうで、これには頭が下がりました。広場からプエブロ全体をじっと見ていると、太古の時代へタイムスリップしたかのような感覚に陥りそうです。早速、一度入ってみたかった共同住居の「北の家」へ行ってみる事にしました。近くに行くと、その大きさと土を塗り固めて作られた土塀の巧みさにびっくりしたのと、何処からか香ばしい良い匂いがしてきた事に気付きました。どうやら共同住居の中にブレッド屋さんがあるようです。
            
しばらくすると、あるスカイブルーの扉が開き、ネイティブアメリカンのおばあちゃんがブレッドを抱えて出てきました。今、焼きあがったばかりのブレッドを軒先で販売するようです。つたない英語とボディーランゲージで、おばあちゃんにブレットが食べたいと言う事と、タオスプエブロの話が聴きたいと言う事を何とか伝えると、快く了解をして、家の中へ招き入れてくれました。そこは壁、床、天井と全て外装と同じ土を塗り固めた空間で、8畳くらいのスペースに暖炉、キッチン台、整理棚が小奇麗に配置された素敵な部屋です。ブルーコーンから作ったブレッドを頬張りながら、おばあちゃんが話してくれるタオスプエブロの話を、英会話がたっしゃな同行者に訳してもらい、暫しの間、耳を傾ける事にしました。タオスプエブロは古来より農耕民族でブルーコーン
(現地のトウモロコシ)、ジャガイモ、ビーンズなどを作り、平和に暮らしてきたそうです。しかし、西部開拓時代に入るとスペイン人、そして白人による略奪と迫害を受け、プエブロの入り口に有る沢山の墓は、その時に命を落とした人々を埋葬してあるそうです。今でこそ何処へでも出かけられるし信仰も自由になり、平和な時代となりましたが、苦しい時代を生き抜く事は並大抵の事ではなかったようです。そして最後におばあちゃんは、「私と関わりあう全ての人に幸せ有れ。」と素敵な言葉を教えてくれました。貴重な話を節々と語ってくれたおばあちゃんに御礼を言ってその場を後にし、今度は民家の建ち並ぶ町中を散策してみる事にします。素材こそ同じ土ですが、建ち並ぶ家々はどれも個性的で、皆それぞれ違う形をしています。様々な形をした建築物を楽しみながら散策していると、ネイティブアメリカンクラフトを販売するお店をちらほらと見かけるようになってきました。好奇心大せいの私ですので、早速中へ入ってみる事にしました。、入ったショップはネイティブアメリカンジュエリーを販売するお店で、店内は商品が並べてあるショーケースが一つと、商品を製作するための作業台、そして材料が並べられており、気の良さそうなネイティブアメリカンのおばちゃんが笑顔で迎えてくれました。ショーケースに整然と並べられたジュエリーは、ネイティブアメリカンの手によって一つ一つ手作りされ、その卓越した技術と暖かさはなんともいえない魅力を放っていました。おばちゃんは一つ一つ商品を手にとって、描きこまれた文様の意味、材質、取り扱い方などなど丁寧に説明してくれました。そして、もうちょっとしたら製作者が戻ってきて、また作り始めるので、興味があったら観ていかないかと言ってくれました。これは願ったりかなったりでしたので、しばし商品を観たり、おばちゃんとおしゃべりしたりして待っていると、想像とは裏腹の、大きな恐持ての顔をしたネイティブインディアンが入って来ました。「また、何か事件が起こるのかな。」、などとドキドキしていると、おばちゃんは、夫であり、ネイティブアメリカンジュエリー製作者であるその大男を紹介してくれました。ほっとしてネイティブアメリカンジュエリー製作者である大男に挨拶をすると、その出で立ちからは想像も出来ない程のやさしい声で挨拶を交わしてくれました。いつも思っている事なのですが、姿、容姿で判断してはいけないと言うのを改めて思い直しました。さっそく、ネイティブアメリカンジュエリー製作者は作業台に向かいジュエリー作りに取り掛かりました。シルバーの塊を加工し、頭の中に描いた設計図通りに作り上げていくその様子は、繊細にして手際の良い素晴らしい職人技でした。製作者は作業を続けながら、ネイティブアメリカンジュエリーに対する想いを語ってくれました。
            
ネイティブアメリカンジュエリーというのは一つ一つが手作りなので、すべて世界に一つの一点ものです。似たような商品があったとしても同じ物は存在しません。また、身に付けられる方へ、製作者の想いをありったけ注ぎ込み、暖かさと安らぎを与えられるように作りこんでいくのだそうです。確かに作業を行う姿は、オーラが出ているような気がします。どれ位その光景を見ていたか定かでは有りませんが、窓から差し込む日差しは、かなり傾いてきたようです。今出来上がったばかりのネイティブアメリカンジュエリーを譲り受け、丁寧におばちゃんとネイティブアメリカンジュエリー製作者にお礼を言って、ネイティブアメリカンジュエリー店を後にしたのでした。外に出ると空はうっすらとオレンジ色に染まり始め、日没が近い事を告げていました。ネイティブアメリカンプエブロでは日の出と供に目を覚まし、日没と供に眠りに着くのが鉄則です。まだまだ沢山の物を観たり、ネイティブアメリカンの話を聴いたりしたいのは山々ですが、どうやらここまでのようです。もう一度タオスプエブロが一
できる広場に出て、目の前に広がる光景を一生忘れないように一したのでした。そして、いつまで眺めていても飽きない光景に見切りをつけた後、同行者と供にタオスプエブロを後にしました。それにしても、日本の身の回りにある物、また本で得た情報が全てだと思っていた私には、目から鱗が落ちる思いで過ごした一日となりました。帰りの道中は、リオグランデ川沿いに車を走らせ、眼下に広がる断崖絶壁の絶景と、真っ赤に染まる夕焼けの中、束の間でしたがネイティブアメリカンと過ごした一時の余韻に酔いしれながら、ひたすらサンタフェへの帰路を走り続けたのでした。
          
サンタフェに着くと、今日も午前2時を回っていました。先日、今日と2日間に渡りお世話になった同行者の方に心から御礼を言い、ホテルに着く頃には空が白み始めていました。しかし、ぜんぜん眠気が襲ってくる事も無く、部屋へ戻っても眠る事は出来ません。先日、今日といくつものネイティブアメリカンプエブロに出向き、その景観、空気、ネイティブアメリカンとの出会いが余りにも新鮮で、楽しくて、衝撃的で興奮覚めやまないようです。その日から3日間は、一人で地図を片手に、ネイティブアメリカンプエブロ散策は続いたのでした。あっという間に滞在予定期間は過ぎ去り、ホテルの店員さんに指摘を受けたときには、ホテル滞在を1日オーバーしていました。今回の旅はここまでかなと、まだまだ満足しきれない自分の心を宥めすかし、アルバカーキ空港へと帰路に着きました。間もなく飛行機は離陸し、窓からサンタフェの街、アコマプエブロ、タオスプエブロなど思い出深いネイティブアメリカン居留区を眺めながら、現地で有った出来事、観た事を頭の中で思い返していました。そして、またまた空港で迷いに迷いながらも、なんとかアルバカーキからダラス国際空港経由で成田空港へ到着する事が出来ました。こうして、大好きな音楽であるブルースを、本場のシカゴで聴き、憧れの地であったネイティブアメリカンの居留地、サンタフェでネイティブアメリカンとの出会い、現地の景観、また生活の様子などを垣間見る事が出来ました。今回は初めての海外旅行となったのですが、海外に出ると常識の違い、生活習慣の違い、そして何とかなると思っていた言葉の違いにあたふたするばかりで、出発前によく調べておかないと大変な事になる事を、身をもって感じました。シカゴでの強盗に追いかけられた事、アルバカーキ空港で軍隊に拘束された事などなどの失敗も、行き先の常識をわきまえていれば出会わなかった事件のように思います。また、今回の旅行では、沢山の方々に助けていただいた事、親切にしていただいた事など、とても人のありがたさ、温かさを感じる旅でもありました。もし、身の回りで困っている方が居られましたら、どんどん力になっていこうと改めて思い直しました。今回の旅行では、自分の目的を達成する事が一番の目的でしたが、海外で日本の常識は通用しない事、世界共通で、人との触合いが大事な事など、旅行を通して学んだように思います。最後に、わがままをいって旅行を決行してしまい、多大なる心配と迷惑を掛けてしまった家族のみんなに、お詫びと感謝の念をおくらせてください。「ごめんなさい、そしてありがとう」。また、旅先で親切にしてくださった方、「ほんとうにありがとう」。そして、最後まで読み終えてくださった方に感謝いたします。

 

             

 

私に関わる全ての人々に幸あれ。 

(完) そして、現在も-PUEBLO-の伝説は刻まれる。

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